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ここから立ち上がるポーズ。

なぜ生きるのか?

Baby toes

気付いた時には生きていた。人間というのはそういう生き物だと思う。自分の意志で生まれてくることはできない。親の意志だけで誕生する。

もちろん、勝手に生まれてくるわけではなく、生まれるにはそれなりの確率を生き抜かなければならない。ちょっとした奇跡と言える。

まぁ、それにしても生まれてしまった側としては、「気付いたら生きていた」としか言えないのだが。

で、ある時、ふと思う。「なぜ自分は生きているのだろう?」

小学生の時、ふとんに入りながら寝ようとしているとき、自分が死んでしまうという事実に気付いて、絶望に恐怖を感じて両親に気付かれないように泣いた。

中学生になると両親も確実に死ぬという事実に絶望して恐ろしくなり、寝落ちする直前にも関わらず胸が急に締め付けられるような感じがし、目の前が急に暗くなるような錯覚に陥りながら「ハッ!」となり目覚める。

そんなことを30歳を超えた今でも繰り返している。

「死」というものに異常に恐怖を感じながら生きてきた。

自分が死ぬという事実を忘れているときは楽しく生きられる。しかし、夜一人になり眠りにつくとき、死ぬ自分を思い出し怖くなる。

世の中の他の人は同じように感じないのだろうか?と不思議に思う。中には同じことを思う人もいるらしく、ホリエモンも著書で同じようなことを言っている。

誰かの名言にも、人は死を忘れているだけであるというようなニュアンスの言葉がある。そして、キリスト教にもメメントモリという言葉がある。死を忘れるなという意味らしい。ミスチルの曲に同じタイトルのものがある。

昔、塾講師のアルバイトをしているとき、神戸大学の後輩講師が入ってきて、自分はミュージシャンンになるのが夢だと言っているやつがいた。確かに歌はうまかった。顔もそこそこ。

ある日、バイト仲間数人でメシを食った後塾に戻り、ちょっとした議論みたいになった。その中で、そいつは死ぬことが怖くないと言っていた。

自分は死ぬことが死ぬほど怖いので、こいつはバカだなと思ったが、と同時に、こいつは自分が死ぬという現実を「リアル」に感じることができないだけなんじゃないかと思った。

「リアル」に死を感じることができない人には「死」は怖くないのかもしれない。

 そんなことを考えながら生きていると、なぜ人は生きるのだろう?という考えにも至る。結論から言うと、いまの段階では生きることに意味はないと思っている。

この世界は唯物論的な仕組みでできていて、すべてはただの化学反応が連鎖しているだけの意味のない世界。

そこに人間は中途半端な知能というものが身についてしまったので、意味を見出そうとするが、本当は意味なんてものはない。

生まれ、生き、そして死ぬのも、原子と原子の結びつきがただそこはかとなく変遷していくだけの現象でしかない。

じゃあいま生きているこの人生に意味はないのか?いや、そんなことはない。この人生は人間として生命を持ち、感じ、考えることができる形で存在している。

最初にも述べたけど、気付いた時には生きていた。そして、死ぬことは確定している。だったら、この体で、この命で、受けきれるだけ受けられる、幸福、快感を感じに感じまくって死んでやる。

つまりは、人生を謳歌してやるってことだ。この人生ってやつはなかなかにおもしろい。思い通りになることもあれば、思い通りにならないこともある。

楽しみだけじゃなく、苦しみもある。しかし、よくできた世界だ。よくできた設定のゲームという感じ。苦しいことがあれば逃げてもいい。ルートを変更してもいい。

世の中にはいろんなやつがいて、いろいろなルールを自分たちでかってに決めて、自分たちの勝手に生きている。そのコミュニティが自分に合わない、そこでは勝負できないってんなら、逃げたっていいんだよ。

自分が最高に幸福を受けることができる場所を探し続けてもいい。でもそれだけじゃ逃げ回っているうちに人生が終わってしまうかもしれない。寿命ってもんがこの命にはあるからね。

もしかしたら、苦しいかもしれないけれどそこで耐え忍んで、自分を強くすることで成功するかもしれない。幸せになれるかもしれない。そのあたりを自分の頭で、自分の脳力で見極めて、判断しなけりゃいけない。

ROI=return of ivestmentという考え方が好きなんだけど、どれだけ投資して、その見返りがどれだけなのか、最も自分が得するにはそれを常に意識して生きていかなければならない。

何の努力もせずに、だらだらと生きていく。それもありなんだよ。それで自分が納得して、それで死ぬことになっても満足だ、自分の人生のリターンは最大になったなと思えるのなら。

いや、自分には能力がある、努力すれば未曽有の大金持ちになることができ、あらゆるものを金で買えるような人生にできるかもしれない。それが自分の感じる幸せだってんなら、それもあり。

あるいは、ひとつの学問を徹底的に探究して、人類史上初めて誰もなしえなかった、誰も知りえなかった事実を突き止めることができて、人類全体にとってとんでもない幸福をもたらすかもしれない。

つまりは、自分が納得すれば、どんな生き方をしようが自由なんだよ。幸せだって思うのは、自分なのだから、自分にしか決められない。他人の目を気にしたり、他人の期待に応えたり、それが本当に自分にとっての幸せかい?

もしもそうじゃないのなら、他人の声や目や気持ちを気にすることはないんだよ。でも他人に目に声に期待に応えられないことが自分にとっての不幸なら、応えるべきだね。

情けは人のためならずっていう言葉があるじゃないですか。この言葉は本来の意味を勘違いして使っている人が多い言葉としてよくでてくるけど、今回はそのために出したわけじゃないよ。

やさしさってのは、他人のためにしてるわけじゃないんだよ。他人に施したやさしさで自分が気持ちいいからしてるわけ。逆に言うと、他人にやさしくしないと自分が気持ち悪い、自分がつらい、だからやさしくするわけ。

そうじゃないと思っているのなら、もう一度よく考えた方がいい。自分の気持ち、考えを掘り下げた方がいい。やさしさは、自分のためなんだよ。

人生は自分さえ良ければいい。究極はそうなんだよ。でも自分が幸せになるために、他人の幸せも大事なら、他人も大事にしよう。それだけのことだと思う。

基本的に赤の他人の幸福なんてどうでもいいことだと思うけど、家族の幸せは願う人が多いよね。でもその家族の始まりは他人との付き合いから始まる。因果なものだね。

そうやってつながっていくと全人類つながってるし、その命を維持するためにこの地球全ての存在とつながっていくし、この地球を存在させるためには全宇宙とつながっていく。

哲学的だね。そんなことを考えて何も為さずに人生が終わってしまっては虚無感でいっぱいになってしまうので、何かを成し遂げっつ、そのための努力をしつつ、また今日も生きていく。その中に、ただ無為に過ごす日があってもいいのだよ。

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